2009年9月21日月曜日

大麦小豆二升五銭

8年程前に読んだ本(「一回限りの人生」清水榮一著、PHP出版)の文中に大変興味深い一節があり、今でもたまにフッと頭を過ることがあります。

昔、四国の丸亀に一人の老婆がおり、この老婆のマジナイが病気に良く効くということで大評判になったそうです。そのマジナイとは、「大麦小豆二升五銭/おおむぎ しょうず にしょう ごせん」というもので、このマジナイを三回唱えて病人の患部を擦ると、どんな病気もたちまち治ってしまったといいます。

しかし、この話には落ちがありまして、ある時その場に立ち寄った一人の僧侶がそのマジナイを聞いて、金鋼経にある「応無所住 而生其心/おうむしょじゅうにしょうごしん(応に住まる処無くして其心を生ず)」であることが分かったのです。

「住まる処が無い」というのは、心が一ヶ所、一つに留まって淀まないこと、執着しないこと、拘らないことであり、そこに「其心を生ず」、つまり無碍自在の心の働きが現われるという意味です。

私はこの話に触れて、お経の「読み方、音」についてそれまでの疑問がスッと消えていく思いがしたのです。お経は、もともとお釈迦様が説法されたとするものを、後々にまとめられたものですが、そのお経は当然インドの言語で書かれています。

玄奘三蔵法師をはじめ多くの僧侶が苦労の末、インドから中国へお経を持ち帰り、そこで中国語に翻訳されました。そして、直接的・間接的に日本に入り、私たちは現在日本語の発音でお経を読んでいます。

お経は原語・原音で読まなければ意味がないと強調する人もいますが、この「おおむぎ しょうず にしょう ごせん」の話を聞きますと、大事なことは音や文字そのものよりも、そこに託された意味をありのままに信じる気持ちなんだということが、私にはよく分かります。

大阪にある浄土宗洗心寺のご住職からも、かつてこれと似たお話を聞いたことがあります。無学な老婆がいたそうです。その老婆がご住職に「どうしたら成仏できるか」と尋ねました。ただひたすら無になって南無阿弥陀仏と唱えなさいと言うと、本当にそれからというもの毎日熱心に念仏を唱えたらしいのです。それ以来、ご住職が見るたびに彼女は仏様のような邪念のとれた美しい顔に変わり、やがて幸せに天寿を全うしたそうです。

その話に付け加えてご住職が私に優しい口調で言いました。「立派な肩書きをもっている人ほどダメですね。頭で考えすぎて肝心なものが見えないのです。その点、あのお婆さんは立派でした。私の言ったことを、ひたすら信じて念仏を唱えつづけましたからね」と。

神通力を得たという、かの久米の仙人ですら、小川のほとりで洗濯していた若い乙女の、裾をまくり上げたなまめかしい姿に欲心を起こし、天上界を飛翔中に下界を見て墜落してしまったという話があります。仙人でも囚われると失敗するのです。

足法を上手になりたい人はたくさんいますが、技術だけに執着していては限界を超えられません。会員証の裏にある「足法句」を繰り返し読んで心に焼き付けていただき、その意味するところに向かって精進して頂ければ、いつの日か必ず大きなエネルギーとなって、より嵩い自分へ還っていくと私は思っております。

(2003年3月)

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